一般社団法人 日本耳鼻咽喉科学会

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学会について

沿革

1.耳鼻咽喉科学会草創より戦後までの歩み

1)独立科としての耳鼻咽喉科診療と「東京耳鼻咽喉科会」の発足

 明治25年4月、ドイツより帰朝した金杉英五郎は、同年5月海軍軍医高木兼寛の経営する東京病院で耳科、鼻咽喉科の診療を開始し、9月東京慈恵医院医学校において、耳科、鼻咽喉科の講義をはじめた。また、12月東京市日本橋区久松町40に東京耳鼻咽喉科病院を開業、翌明治26年2月19日、同志7名とはかって「東京耳鼻咽喉科会」を結成した(事務局:東京耳鼻咽喉科医院内)。これが日本耳鼻咽喉科学会創立のはじめである。

 この会は、毎月第2および第4木曜日に日本橋区久松町の金杉の医院で、同年10月第1回耳鼻咽喉科総会を開催するまで16回の集会を開催している。会員の資格は開業免状所持の医師とし、その数は30名を越すに至った。

 第1回耳鼻咽喉科会総会は同年10月28日東京市麹町富士見軒で行われ、金杉が会頭を務めた(明治27年12月制定の会規則第十条に“本会ニ会頭一名幹事六名ヲ置き投票ヲ以テ定ム”とあり、また第十二条に“会頭ハ会務ヲ総理シ幹事ハ庶務会計ヲ担当ス”とある)。また、金杉は翌11月耳鼻咽喉科研究所をつくって「耳鼻咽喉科雑誌」を創刊し、本学会誌の基礎をつくった。

 明治29年6月、小此木信六郎はドイツ留学を終えて帰国し、神田区南甲賀町で斯科診療をはじめたが、同年10月25日開催の第4回東京耳鼻咽喉科会総会において副会頭に選任され、また明治31年1月本郷区元町に病院を新築して、診療のかたわら近くの済生学舎で斯科の講義を行った。

 明治30年1月17日、神田小川町の東京顕微鏡院で常会ならびに臨時総会がもたれた際、会の発展を期して会名を「大日本耳鼻咽喉科会」と改め、同年5月会頭制を廃し評議員制にするなど、会規則を改正し全国的に会員の拡充をはかった。この会名は、その後昭和18年第47回総会まで47年間呼称されたもので、戦前を象徴する本会の代名詞でもある。なお、この時期の専門図書発刊には次のものがある。

 賀古鶴所「耳科新書(前)」、金杉英五郎「耳科学(上)」、賀古鶴所「耳科新書(後)」、金杉英五郎「耳科学(下)」、金杉英五郎「鼻科学」。

2)耳鼻咽喉科講座の開設と学問としての体系化

 明治32年11月10日、政府は官報をもって“帝国医科大学法医学の次に耳鼻咽喉科学の一講座を設く”と勅令を発し、翌明治33年1月19日、前年12月耳鼻咽喉科学研究の目的をもってドイツ留学を終え帰国した岡田和一郎助教授によって、耳鼻咽喉科学講座が東京帝国大学に開設された。岡田は同35年3月31日、大学における初の正教授に任ぜられ、卒業試験に耳鼻咽喉科学が必修科目となるなど、はじめて名実ともに斯科が独立開花することになった。

 ついで、明治35年10月、京都帝国大学では浅井健吉講師によって耳鼻咽喉科が開設され、また明治36年2月金沢では宮田篤郎が、明治38年8月長崎では高畑挺三が、斯科の診療をはじめた。その後、明治年間に開設された講座は下記のごとく10大学にのぼり、さらに大正年間開講の5講座を含めると計20大学となり、ここに全国的規模に斯科の専門分科独立が達成した。

 明治38~44年(10大学開講)名大、阪大、日医大、九大、千葉大、岡山大、京府医大、新潟大、東北大、熊大(現在名)
大正4~14年(5大学開講)東女医大、東医大、慶大、北大、東邦大

 この間、学術講演会における出題数は、第6回(明35年)19題、第10回(明39年)22題、第20回(大5年)52題、第30回(大15年)91題、第40回(昭11年)60題、第47回(昭18年)100題と回を重ねるごとに増加し、会員の研究意欲の旺盛さを物語り、また下記の先達らの専門図書の刊行はドイツ医学をよく吸収し、日本人自身の手によって著わされたものであり、斯科の学問としての体系づけとともに、その発展に寄与することとなった。

 この時期の主なる専門図書の著者を下記に掲げる(散称略、発行年代順)。

 小此木信六郎、菊池循一、堀内謙吉、金杉英五郎、岡田和一郎、尾関才吉、今井玄三松、吉岡 猛、岩田 一、吉井丑三郎、賀古鶴所、谷村銀一郎、細谷雄太、佐藤敏夫、久保猪之吉、中村 豊、赤松純一、廣瀬 渉、和田徳次郎、池田昌克、田所善久馬、光本天造。

3)大正・昭和初期の耳鼻咽喉科の充実

 各大学における耳鼻咽喉科講座の設立、学術発表の活発化、専門図書の発刊など、学問的気運向上に至った耳鼻咽喉科学会は、大正元年会員数826名を擁する一大学術団体にまで成長し、大正7年4月1日上野精養軒において“大日本耳鼻咽喉科会創立25年記念祝賀会”を挙行した。また、大正時代に刊行された斯科領域専門図書の著者は
岡田和一郎、和辻春次、池田昌克、細谷雄太、金杉英五郎、吉井丑三郎、柏原省私、久保猪之吉、居合伍一郎、光本天造、田所喜久馬、神尾友修、千葉真一、河野 穣、岡部剛二、青井鑛一、浅井三郎、廣瀬 渉、東海林重信らである。

 昭和期に入っては(昭和元年~15年)、さらに下記の方々による多数の出版書がみられる。

 赤松純一、廣瀬 渉、小此木修三、細谷雄太、中泉行徳、山本常市、久保猪之吉、 西村美亀次郎、江田正四、和田徳次郎、山崎春三、中村 登、増井龍恵、横川 譲、香宗我部 寿鳥居恵二、佐藤重一、山川強四郎、西端驥一、颯田琴次、増田胤次、鰐淵 源、田中文男、倉田包雄、高橋 良、松井太郎、笹木 實、久保猪之吉ら。

 この中で特筆されるものは、昭和8年以降克誠堂書店より刊行された、全11巻からなる久保猪之吉編『日本耳鼻咽喉科学全書(未完)』で、ここに耳鼻咽喉科学は全学究の徒をあげて学問体系の金字塔を打ち立てたといっても過言ではない。すなわち、明治期の図書がほとんど耳鼻咽喉科領域に関したものであったが、この期には、脳神経科、眼科、音声言語、気管食道科、小児耳鼻科、全身疾患(喉頭結核)、などの関連領域にも及んでいることで、わが耳鼻咽喉科学はこれら先人の努力によって、学会創立半世紀に至らずして顕著な発展を遂げた。

 ここで、この時代の背景についてふれるなら、大正3年にはじまった第一次世界大戦(ドイツ国と対戦)、大正9年学位令改正、また政府の官費留学制度(明治期では大学も少なく国情としても必要かつ急務であった)の自粛などもあって欧州への留学は少なくなり、これがわが国の疾病と医療の実態を自らの目で診ることに益し、外国の模倣・吸収の時代より、独自の学問的体系樹立に貢献することになった。

4)第二次世界大戦中における低迷の時期

 昭和16年、第二次世界大戦勃発によって会員の多くは出征し、各大学においては教室員が激減、さらに戦局の悪化するに伴い、診療・研究は低迷せざるをえなくなった。

 しかし、大日本耳鼻咽喉科学会総会は、第47回(会長:松田龍一、金沢市)を昭和18年に開催し、戦後昭和22年大阪市で再開されるまで3年間欠会したのみであり、また図書出版(昭和16~19年)、星野貞次、鳥居恵二、田口卯三郎、後藤光治、吉田三郎、松井太郎、西端驥一、鰐淵 源、猿渡二郎、中島賢二郎、田中一弘、金野 巌らにより、昭和19年まで刊行されており、斯学の活動が数年間の停滞で済んだことは幸いであった。

 この期に、昭和15年9月第44回宿題報告、陸軍軍医学校齋藤 勤「支那事変に於ける耳鼻咽喉科領域並に一般顔面戦傷に就て」(京城支)および昭和17年3月第46回宿題報告、海軍軍医学校吉田太助「航空医学特に航空と耳鼻咽喉」(東京市)の2宿題の講演があったのは、当時戦時下の世相を反映するものであった。また、この大戦を終わって多くの会員を失ったことは極めて残念なことである(会員数:昭和19年2,327名→昭和23年1,906名)。

2.戦後の耳鼻咽喉科の発展