一般社団法人 日本耳鼻咽喉科学会

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学会について

沿革

2.戦後の耳鼻咽喉科の発展

1)ドイツ医学からアメリカ医学への移行

 昭和20年、第二次世界大戦の終結以降、日本医学会はアメリカ医学の影響をうけ、時代の変換期を迎えた。すなわち、米国軍軍医サムス大佐(のちに准将)が、占領下の日本の公衆衛生対策と医学教育に残した役割は、その後、医師国家試験に公衆衛生学が必修課目とされ、また昭和21年インターン制度が取り入れられたことにも表れている。

 当時、リーダース・ダイジェストが、日本の知識人にむさぼるように読まれ、その結果対戦国アメリカの文物にふれ、その実態を知ることともなった。なかでも医学においては、戦後駐留米軍のもたらした医学文献によって、米国の進んだ医学に瞠目されると同時に、ドイツ医学からアメリカ医学への転換を余儀なくされた。

 すなわち、個々の研究領域の彼我の相違のみでなく、基礎医学重視より臨床医学重視、各科独立診療より中央診療システム化など、研究理念や診療機構の変容は、封建制から民主主義への改革とともに、既存の意識構造の改革を迫られるに至った。その受け取り方は、各年代層によって区々であったが、会員の中には、駐留米国陸海空軍病院のインターンを終えて米国留学を志すものもでてきた。

 戦後しばらくの社会情勢の混乱の中、乏しい研究設備と人的不足をも顧みず、昭和22年4月、大阪市において第48回学術講演会が「日本耳鼻咽喉科学会」の改称のもと山川強四郎会長の主宰で再開されたことは、本学会にとって極めて明るいニュースであり、会員一同その再開を喜び合ったことである。

 また、昭和24年11月には、“日本気管食道科学会”が分科独立し、いわゆる“関連する学会・研究会”の先駆けとなり、昭和28年4月には、日本耳鼻咽喉科学会は社団法人に改組されるなど、耳鼻咽喉科学はその学問的内容とともに、組織機構的にも大きく次代に飛躍する準備期をつくった。

2)海外進出と国際交流

 戦後、昭和27年、中村四郎(アイオワ)、昭和28年、高原滋夫(シカゴ)、昭和28年、山本馨(フィラデルフィア)らに続いて米国よりの研究員招聘によって、斯科からも第一線の研究員がECFMG(外国医学校卒業者試験教育委員会)の試験を受け渡米する機会に恵まれた。

 こうして米国の各施設で研究に従事し、また長期滞在して米国の医学教育を身につけ帰国するなど、欧米ならびに諸外国に学んだ会員が、それぞれの施設に復帰して学術面に果した貢献は大きく、ある領域での研究は国際水準に達するまでになり、近年会員の中には国際会議の重要な役職に抜擢されるものもでている。

 また、CNPの上昇とともに会員の国際学会出席も活発となり、多くの会員が海外の医学関係諸施設を視察してその実態にふれ見聞を広めたことは、有形無形の学会の隆盛に裨益している。

 遡って、昭和40年10月には第8回国際耳鼻咽喉科学会議を日本で開催して大成功を収めたばかりでなく、長年諸外国ではなしえなかった国際耳鼻咽喉科学連合(IFOS)をわが国の提案で成立させ、その事務局(事務総長小野 譲)を東京におくなど、国際交流に果たした役割は大きく、その蔭にはわが国の斯科の学術面における発展と全会員の一致協力の態勢がある。同事務局は3期12年間日本におかれ、その後1975年からメキシコ国に移管されたが、この間の足跡は昭和56年4月10日小野 譲著“Record of the First Twelve Years of IFOS”としてまとめられ、海外にも送られた。

 また、各関連学会でも国内で国際学会やシンポジウムを担当、開催して成功を収めるなど、会員の活躍はめざましく、昭和40年頃より世界各国からわが国に寄せる期待は年ごとに大きくなっている。

3)耳鼻咽喉科学の分科と統合

 学問の進歩に伴い、耳鼻咽喉科領域においても昭和24年日本気管食道科学会の設立をみてから、昭和38年までに9つのいわゆる“関連する学会・研究会”の誕生をみたが、各分野における学会員の活躍の一つの証として、種々の医療機器の開発・国産化があげられる。

 すなわち、昭和23年ネブライザーならびに補聴器、同24年オージオメーター、同32年手術用顕微鏡(他科に先がけ斯科に導入)、同34年電気眼振計、同41年ラリンゴマイクロサージャリー器具(永島社)を開発し、また同41年ファイバースコープ(町田社、オリンパス社)、同年コンピューター、その後レーザー機器を活用するなど、診断技術ならびに治療内容の向上は顕著なものがあり、それぞれの分野における研究発表は枚挙にいとまがない。

 また、薬剤についてはペニシリン(昭22年頃)、抗悪性腫瘍剤(昭25年頃)、消炎酵素剤(昭28年)、副腎皮質ホルモン剤(昭31年頃)、免疫療法剤(昭44年)、漢方エキス剤(昭51年)などの登場によって、治療面は著しい変貌をもたらすに至った。

 その後、昭和42年9月耳鼻咽喉科処置料1点減点をめぐって耳鼻咽喉科医の保険医総辞退問題が起こり、同41~44年の全国的な学園紛争は、医学会ではインターン制度廃止にはじまって医学部体制にも影響し、一時諸機能の低迷をきたした。学会は教育修練特別委員会(昭43。7)、日耳鼻会員実態調査委員会(昭44。3)を設置し、また耳鼻咽喉科臨床修練指導指針(前期)(昭44。5)を作成した。また、その後学会のあり方委員会(昭45。10)を発足して学会の将来について多角的な視野から検討した。

 一方、昭和45年杏林大学医学部ならびに川崎医科大学の開学にはじまるいわゆる新設医科大学34校の創設は既存の講座を含め全国に80施設の耳鼻咽喉科学教室をみることとなり、その活動は本書の各教室史にみられるごとく、学術の振興ひいては学会の隆昌につながる基盤となった。

 このように、斯科領域の発達、各専門分野の分科と学問の細分化に伴い、耳鼻咽喉科は今や各人が全ての領域をカバーするには膨大すぎる領域となった。各年次の学術講演会は3日ないし4日間、3~5会場で同時開催せざるを得ない盛況をきたすようになり、また、昭和49年3月には学会員5,533名を擁するまでになって、翌昭和50年4月地方部会発足の契機と同時に斯学の充実の一因ともなった。

3.近年の耳鼻咽喉科学の発展と学会現況