難聴をiPS細胞技術で治す時代がやってくる!?

難聴治療法の開発が困難なわけ

 WHOの報告によれば、世界の65歳以上の人口の30〜40%にあたる人たちが中等度(補聴器を必要とするレベル)以上の難聴を抱えています。難聴は加齢もリスクの一つとなるため、日本でも団塊世代が後期高齢者(75歳以上)となる2025年には難聴の患者数は1000万人を超えると言われています。
 老人性難聴を始め、突発性難聴、メニエール病などに代表される難聴の多くは内耳に原因がある感音難聴であることが知られています。
 難聴の治療が困難である理由の一つに、内耳の検査の難しさが挙げられます。
 内耳で聴覚を司る蝸牛は、骨の奥に位置した、リンパ液に満たされた臓器なので、その細胞を採取することができません。つまり、細胞を観察することで、疾患の有無やその進行度合いを調べる、いわゆる「病理検査」ができないのです。また、身体の中で最も小さい臓器でもあるため、CTやMRIなどの画像検査でも十分な情報を得ることができません。
 十分な検査ができないために疾患の原因が十分に突き止められず、結果として治療法の開発もどうしても遅れてしまうのです。

iPS細胞研究が切り開く新しい難聴治療法の開発

 そんな難聴治療に今、変化が起きようとしています。
 大きな契機となったのは、京都大学の山中伸弥教授らによって世界で初めてiPS細胞が作製されたことです。
 iPS細胞は身体を構成するすべての組織や臓器に分化できる能力(多能性)を持ちます。そのため、病気や怪我などによって失われてしまった機能を回復させる再生医療分野に活用されるというイメージが強いかもしれませんが、意義はそれだけにとどまりません。患者の血液などからiPS細胞を作製し、そこからその患者さんのさまざまな臓器の細胞を人工的に複製することで、細胞を直接採取できない臓器の病気の原因を解明したり、新しい薬の開発などに活用することもできるのです。
 このiPS細胞の技術を用いて、蝸牛のほぼ全ての種類の細胞を作製する方法を見出した、慶應義塾大学医学部耳鼻咽喉科学教室と生理学教室の共同研究チームは、遺伝性難聴の一種であるペンドレッド症候群の患者さんの内耳細胞を複製し、同様に作製した難聴をもたない内耳細胞と比較検討するという研究を行いました。その結果、患者iPS細胞から作られた内耳細胞は細胞ストレスに非常に弱く、細胞がより死にやすくなっていることがわかったのです。さらに全く別の難病に用いられている「シロリムス」という薬剤が、通常用いる量のわずか1/10でこの細胞ストレスに対する脆弱性を改善できることも発見しました。この知見をもとに、現在ではペンドレッド症候群の患者さんを対象に、シロリムス製剤(ラパリムス®)を低用量で投与することの安全性や、難聴・めまい発作に対する有効性の確認のための医師主導治験も行われています。

安全、安価、そしてスピーディな治療薬の開発への期待

 実は進行性の難聴を起こすペンドレッド症候群は遺伝性難聴の中ではとても患者数が多いにも関わらず、治療法の開発は難しいと考えられていました。ヒト型遺伝子変異マウスでの研究も行われていましたが、動物モデルではなぜか進行性難聴になることがなく疾患を再現できないため、この疾患の難聴メカニズムがうまく説明できなかったからです。
 つまり、慶應義塾大学の共同研究チームによるiPS細胞の技術を用いた研究は、その治療法開発の大きなブレイクスルーだったのです。
 また、同研究チームが行ったような、他疾患で安全性の確立した市販の既存薬の中からスクリーニングして別の疾患の治療薬を選ぶという安全で低コストかつ非常に効率の良い創薬の進め方は、難聴のみならず、あらゆる難治性疾患の患者さんに一刻も早く新しい治療薬を届けることにもつながるでしょう。
 iPS細胞の技術を用いた同様のアプローチによって、近い将来、老人性難聴も含めたさまざまな難聴の詳細な原因の解明はもちろん、それぞれの病態に即した新しい治療法の開発がなされることも期待されています。これまで治癒は難しいと言われ続けてきた難聴が治せる時代がやってくるのも、決して夢ではないかもしれません。

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