はじめに
人工内耳は、現在世界で最も普及している人工臓器の1つで、聴覚障害があり補聴器での装用効果が不十分である方に対する唯一の聴覚獲得法です。人工内耳は、その有効性に個人差があり、また手術直後から完全に聞こえるわけではありません。人工内耳を通して初めて聞く音は、個人により様々な表現がなされていますが、本来は機械的に合成された音です。しっかりリハビリテーション(注)を行うことで、多くの場合徐々に言葉が聞き取れるようになってきます。このため、術後のリハビリテーションが大切です。また、リハビリテーションには、本人の継続的な積極性と、家族の支援が必要です。
*(注)「ハビリテーション」の方が表現として適切な場合もありますが、本文では混乱を避けるため「リハビリテーション」で表現を統一させていただきます。
人工内耳をよりよく理解していただくために、まず聞こえの仕組みについて説明します。
聞こえの仕組み
図1 |
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図1は、耳の構造の模式図です。耳の入り口には外耳道があり、奥に鼓膜があります。鼓膜の奥は中耳、さらに奥には、内耳と呼ばれる組織があります。内耳には音を聞くための蝸牛と、身体の平衡感覚をつかさどる前庭・半規管と呼ばれる部位があります。鼓膜に入った音を蝸牛に有効に伝えるために、中耳には耳小骨と呼ばれる小さな骨が3個あり、鼓膜と蝸牛との橋渡しをしています。外耳道から入った音は、鼓膜を振動させ、耳小骨を通って蝸牛に伝わります。蝸牛にはコルチ器と呼ばれる重要な器官があり、有毛細胞と呼ばれる感覚細胞があります。音の振動が蝸牛に伝わり、蝸牛の有毛細胞に機械的な刺激が加わると、細胞が興奮して電気信号に変換されます。この信号は聴神経へ伝わりさらに脳へ伝えられて音や声として認識されます。
鼓膜や耳小骨に問題があって起こっている難聴は、手術などの処置によって改善可能な場合があります。しかし、蝸牛が傷んでしまっている難聴は、機能を回復するのは、今の医学では困難です。人工内耳は、音を電気信号に変え、蝸牛の中に入れた刺激装置(電極)で直接聴神経を刺激する装置です(図2)。
図2 |
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人工内耳から聴神経に送り込める情報量は正常の有毛細胞を介する場合よりはるかに少なく、したがって人工内耳を使って限られた情報で言葉を理解するためには、言葉の中に含まれる音情報のうち重要な特徴を選択して蝸牛に送り込む必要があります。
人工内耳のシステムと原理
人工内耳は、手術で耳の奥などに埋め込む部分と、音をマイクで拾って耳内に埋め込んだ部分へ送る体外部とからなります。体外部は耳掛け式補聴器に似た格好をしているものが主体(図3)ですが、近年、耳に掛けず後頭部に取り付けるコイル一体型の体外装置も製品化されています(図3)。
マイクで集めた音は、音声処理部(スピーチプロセッサーとよびます)で電気信号に変換され、その信号がケーブルを通り、送信コイルを介して耳介の後ろに埋め込んだ受信装置へ送られます。送信コイルは磁石で頭皮を介して受信装置と接しています。受信装置に伝わった信号は蝸牛の中に埋め込んだ電極から聴神経を介して脳へ送られ、音として認識されます(図3、4)。実際に蝸牛に電極が入ったレントゲン写真を図5に示します。
2014年には低周波数の聞こえが残っている人に対して、比較的短い電極を慎重に入れることで低周波数の聞こえを温存し、「低周波数の音は補聴器(または裸耳)で、高周波数の音は人工内耳で聞き取る」というコンセプトの残存聴力活用型人工内耳(EAS -Electric Acoustic Stimulation-またはハイブリッド人工内耳)も登場しました。
図3 |
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図4 |
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図5 |
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人工内耳の適応
人工内耳の適応を簡単に言えば、補聴器の装用効果がほとんど認められない方です。身体障害者の手帳をお持ちの場合、聴覚障害の2~3級の方が相当します。残存聴力活用型人工内耳の適応も基本的には同様ですが、500Hz未満の周波数においてある程度の聴力が保たれている方が対象となります。
人工内耳手術の適応基準の詳細は、1998年4月に日本耳鼻咽喉科学会から示されています。成人に対する適応基準では、90デシベル(dB)以上の高度難聴で、補聴器装用効果が乏しいものとされています。残存聴力活用型人工内耳の適応は2014年にガイドラインが発表されおり、500Hzまでが65dB以下、2000Hzが80dB以上、4000Hz以降が85dB以上かつ、補聴器装用下での静寂下語音聴取能が60%未満の方が対象となります。全身麻酔の手術が可能であれば特に年齢の上限はありません。ただし、本人の術後のリハビリテーションに対する意欲が大事です。人工内耳手術はあくまでも聴覚獲得のスタート地点に過ぎません。術後のリハビリテーションを長く継続することで次第に言葉が理解できるようになることが期待できます。
小児に対する適応基準は、2014年2月に見直しがなされました(本ホームページ参照)。適応年齢は原則1歳以上となります。聴力検査では原則平均聴力レベルが90dB以上の重度難聴があることが条件となります。ただし、補聴器装用を試みても補聴レベルが45dB以上となる場合、補聴器を装用しての最高語音明瞭度が50%未満である場合はその限りでなく適応となる場合があります。さらに、教育上必要であれば両耳に人工内耳を装用することも認められました。残存聴力活用型人工内耳の適応は成人と同様ですが、年齢的に語音聴取検査ができない場合などは、複数の検査で低い周波数の聴力が残っていることを確認できれば適応となります。さらに、高周波数の難聴により子音の構音獲得に困難が予想される場合にも適応とされております。人工内耳手術を行うに当り、小児では特に手術前後の複数の専門機関での一貫した支援体制が整っていることも大切です。手術・術後のケアを行う医療機関、日常生活での人工内耳を用いた聴覚活用を指導してくれる療育機関『特別支援学校(聴覚障害:ろう学校)、児童発達支援センター(難聴幼児通園施設)、リハビリ医療機関など』、両親や家族の忍耐強い支援、この3本の柱が重要です。これらの連携体制がうまくいくことが、人工内耳を十分に活用できるようになるためには大切な力になります。
人工内耳の適応基準は、今後も変化していくと思われます。
小児の難聴と人工内耳
新生児1000人に1人の割合で中等度以上の両側難聴児が生まれて来ますが、最近では新生児聴覚スクリーニングで早期に発見される傾向にあります。スクリーニングテストで要精密検査(リファー)とされた場合、「新生児聴覚スクリーニング後の精密聴力検査機関」での検査が必要になります。精密検査の結果、補聴器装用が必要な高度難聴であることがわかった場合、なるべく早期に補聴器装用を開始する必要があります。最適な補聴器装用を少なくとも6か月以上継続しても、効果が不十分で平均補聴レベルが話し声レベルを超えない場合(小児の場合、補聴レベルで45dB程度以上が目安)は人工内耳の適応を検討する必要があると考えられます。近年、難聴の原因遺伝子が同定されるようになり、2012年には代表的な難聴遺伝子の検査が保険で行うことが可能となりました。難聴遺伝子の中には、重度難聴となる確率が高いものや難聴の進行が予想されるものがあり、聴力レベルの早期診断に補助的な役割を果たすことが期待されています。
人工内耳の術前検査
聴力レベルから人工内耳が望ましいと判断された場合、医学的に必要な検査をいくつか選んで行います。代表的なものを以下に示します。
CT検査
中耳、内耳の状態をチェックするためにCTが必要です。活動性の中耳炎があると、手術適応とはなりません。この場合、まず先に中耳炎の手術をするか、中耳炎が落ち着くことを待って人工内耳の手術をする場合もあります。
MRI検査
髄膜炎や中耳炎などでは、蝸牛がふさがっていて電極を挿入するスペースが存在しないことがあります。事前にこのスペースがあるかどうかを確認する手段として、MRIが適しています。また蝸牛神経の状態や内耳奇形の有無の判定にも重要です。
平衡機能検査
内耳には、聞こえの蝸牛神経のほかに、身体のバランスをとる神経(前庭神経)もあります。前庭・半規管の機能を調べるいくつかの検査法があります。平衡機能を総合的に調べることで、術後に生じるめまいについてある程度予測ができます。
人工内耳術後のリハビリテーション
人工内耳を装用すれば、すぐに健聴者のように聞こえるわけではなく、またどんな場所でもよく聞こえるわけでもありません。そのために術後には根気強い聴覚・言語の発達のためのリハビリテーションが必要です。
小児の場合は、多くは生まれた時からの難聴であり、聴覚・言語の発達のためのリハビリテーションを十分に行わなければなりません。人工内耳の調整(マッピング)に際して、子どもは自分で音感を訴えることが難しいことも多く、専門の言語聴覚士によるきめ細かいリハビリテーションが必要です。また病院での指導のみでは、すべてをカバーできるものではなく、療育機関、保育所、幼稚園、学校などとの連携が必要です。両親を中心に療育機関、病院の3者が協力して、子供の聴覚活用が十分図れるように支援していかなければなりません。
成人の場合、多くの方は言語獲得後の中途失聴ですので、脳に言葉の記憶が残っています。人工内耳装用後は過去の記憶と新たな音声入力と照らし合わせることにより、聞こえは少しずつ良くなります。ただし、聞こえの回復には個人差があり、失聴期間が長い人よりも短い人のほうが聞こえはよいことが多くみられます。また何よりも大切なのは患者さんの聞こえの回復に対する前向きな意欲です。
人工内耳術後の注意点
MRI検査は強い磁気が生じますので人工内耳手術後にはこの検査を受けるのに制限が加わります。ただ機器によってはMRIの使用磁気の程度や人工内耳部分に包帯を巻いてカバーする事等で可能な場合もありますので医療機関にお尋ね下さい。手術や治療に用いる電気メス、神経刺激器などの使用も制限されます。電子レンジや、電磁調理器、IH炊飯器など、ほとんどの家電製品の使用による人工内耳への影響はまず心配ありません。
日本での人工内耳手術件数の推移
図6は人工内耳手術が開始された1985年から2019年までの毎年の人工内耳手術件数(累計13942件)を表しています。年毎の増減はありますが、平均すると年々施行症例が増加しており、とくに7歳未満の小児例と60歳以上の高齢者の症例の増加が顕著です。この約10年間で、人工内耳の手術件数は2倍以上に増加しました。2019年の手術件数を人口100万人当たりに換算すると、10名弱となります。2011年におけるヨーロッパ諸国での人口100万人当たりの人工内耳患者数は、人工内耳に積極的な国においては15-30名程度、消極的な国では5名程度となっており(*)、本邦で人工内耳の手術を受ける方は、諸外国と比べ依然として多いとはいえません。人工内耳手術における7歳未満の小児の割合は毎年増加傾向にあります(図7)。図8は図7の7歳未満で人工内耳手術を受けた小児の年齢別手術件数を示したものです。これをみると人工内耳手術年齢の低年齢化が進んでいることが分かります。(日本耳鼻咽喉科頭頸部外科学会人工内耳症例データベースより)
(*):Raeve and Hardeveld Prevalence of cochlear implants in Europe: What do we know and what can we expect? Journal of Hearing Science 9-16, 2013
図6
図7
図8
おわりに
人工内耳を用いた聴覚活用の有効性が認知されるようになり、残存聴力活用型人工内耳の開発・両側人工内耳の導入などもあって人工内耳手術件数は年々増加しており、現在日本では年間1000例超の手術が行われるようになりました。新生児スクリーニングの導入・聴力検査機器・遺伝子検査の進歩などにより難聴の早期診断・確定も可能となり小児先天性難聴者に対する人工内耳の低年齢化も進んでまいりました。しかしながら、それ以上に人工内耳医療には根気強い継続的なリハビリテーションが重要で、特に先天性難聴児の場合は、乳幼児期早期から支援を行ってゆく社会的背景の確立が重要です。
2021年8月31日改訂